院長挨拶

本来の能力を社会に生かせる道を共に寄り添い考えていきたい
はじめまして。DYLクリニック院長の後藤健治と申します。m3.comという医師専用のサイトではYANBARUという名前で一時は有名でしたのでご存じの方もいらっしゃると思います。
1962年生まれ、岐阜県各務原市の出身で加納高校を卒業して名古屋の河合塾千種校で一浪後、京都大学経済学部に進学。同大学在学中に日本中通算1万キロくらい野宿しながら自転車で放浪しました。
最初大学院に進む予定で一年休学しましたが「入院」を止めてマスコミに就職活動を行い、中日新聞で採用され、東京本社横浜支局に配属されました。警察担当が嫌いで動物の記事ばかり書いていました。
3年目平塚通信部時代にひどい支局長との出会いがあり、電話恐怖症になって名古屋本社社会部に送り返され、そこで退職しました。
平塚通信部時代に国立大学医学部の同期の友人から「医学部にはお前みたいな変な奴が必要だ」と聞いて医学部受験を思い立ち、一年浪人して幸運にも九大医学部に後期で入学する機会を与えられました。浪人前半の100日は練馬の新聞販売店に住み込んで毎日340件新聞を配りながら駿台予備校市ヶ谷校に通い、後半は京都の駿台に移り千本通の1万円の貸間で勉強に専念しました。寒い部屋で室内で氷が張ったことを覚えています。
九大医学部入学後は一年目の夏に富士山の山小屋でアルバイト、二年目の夏は鑑真号で中国に渡り長江周辺を一か月放浪、二年目の春休みはインドを一か月放浪(列車で一周)しました。



医学部時代に元妻と出会い結婚、1男1女をもうけ、九大精神科の医局人事の3年目に国立療養所琉球病院に赴任。そのまま医局を離れてその後は沖縄県内のあちこちの医療機関に勤務して今に至ります。沖縄で次女が生まれ、名護に家を2件建てましたが離婚の際に元妻にあげました。
ADHDの診断は琉球病院時代に九大の大先輩の先生から受け、保健所や児童相談所、発達障がい者支援センター、那覇少年鑑別所の診察などを経験させていただきました。
ここ20年くらいは「ADHDとASDはどこが違うか」という問題を考え続けてきました。
最近6年間は放課後等デイサービス「ドーユーラボ」に関わり、発達凸凹の子供たちの能力をどう伸ばすか、どう社会に生かすかを考え続けています。
私自身は「二次障害重症のADHD当事者」で、重症のジャイアンACから一時離人症のようになり、現実の苦労の中で徐々に合理的なADHDになってきたと考えています。
発達凸凹の大人も子供も、まっすぐでまじめで不器用で、私はどうすればこの子たちが本来の能力を社会のために生かせるか、本人や親の皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
DYLクリニック 院長 後藤健治